(民間)
北輝次郎(一輝)は明治十六年四月十五日、新潟県佐渡郡両津町湊に代々酒造業を営む父、慶太郎、母リクの長男として生れた。彼の下には昤吉と昌の二弟があつた。
幼くして俊敏、広く読書にふけり、文章をよくし、十八歳の頃にはすでに社会主義に傾倒し、佐渡新聞に掲載した国体に関する論文が、当時、不穏思想として記事差止めとなるなど、早くも将来への片鱗を現わしていた。
二十歳の時、固疾(こしつ)の眼病が悪化し、ついに右眼を失つたが、ひたすら社会科学への探究に没頭し、すこしもひるまなかつた。
明治三十八年、二十三歳の春、彼は雄心勃々として上京した。時はちようど日露戦争直後であつた。国内は戦勝の景気に湧いていたが、その蔭には講和条件を不服とする国民の憤満が「ロシア討つべし」と沸騰し一方には、ようやく滲透しはじめた社会主義者の非戦論が、すこぶる活潑にこれに応酬していた。この混乱した中に立つて青年北は、その独創的国史観にもとづき、堂々日露戦争を是認し、当時幸徳秋水一派の唱道した直訳的社会主義に痛烈な反駁を加えた「国体論及(および)純正社会主義」の大著を発表した。明治三十九年五月のことである。
この著は大いに世論をよび起し、各新聞も一斉にこれを取上げ、若冠二十四歳の北輝次郎の名は、一躍して世に出るに至つたが、著書は政府の忌避するところとなり、発禁の憂き目を見てしまつた。
同年十一月、この著が機縁で、宮崎滔天等と交わるようになると、彼は進んで秘密結社中国革命党に参加した。そして縦横の才幹をもつて、たちまち党内の重要な地位につくと、孫文派に対立して宋教仁、張継等と愛国的革命を提唱して東奔西走した。
明治四十四年十月、武漢に革命の烽火が挙ると直ちに支那に渡り、宋等と共に革命の枢機に参画した。妻鈴子を迎えたのは同じ年の十二月であつた。ところが三年後の大正二年三月、第一革命の実際の指導者宋教仁の暗殺事件が起ると、宋と表裏をなしていた北は、退去命令によつて支那から追放された。
東京に帰つた北は、支那革命の爾後の対策のかたわら、「支那革命および日本外交革命」を書いて、朝野の指導階級に支那革命の本質の理解と啓蒙に努めた。
大正五年六月、第三次革命が起ると再び渡支してこれに参加した。彼が三十四歳の時である。しかし、事志と違い、以来上海に滞在して後図を練つた。こうして上海に生活することになつた北は、朝夕、法華経(ほけきょう)を読経し、宗教生活に終始した。北の後半生における法華経三昧(ざんまい)の生活は、ようやくこの頃から、その深さを加えている。
北は上海に滞在中も、つねに祖国日本の状態を憂えていた。大正八年六月、東京の満川亀太郎に書き送つた「ヴェルサイユ会議の最高判決」が動機となつて、同年八月、猶存社を代表して大川周明がひそかに北を上海に訪ね、「中国より日本が危い」と説いて、北の帰国を促した。当時、彼はみずから日本の革命に当ることを決意して、その革命理論ともいうべき「国家改造原理大網」をすでに執筆していた。大川は大いに共鳴し、ここに両者は相提携して祖国の革命に邁進することを誓つた。かくして北一輝が、同書を携えて帰国したのは、翌九年の正月であつた。
彼を迎えた猶存社の活動は活潑となつたが、しばらくして満川、大川等と疎隔を来し、関係を断つことになつた。猶存社もまた、十二年三月に解散した。猶存社を離れた北は、以後組織的活動の表面に立つことがなかつたが、大正十五年四月、前記の著書を「日本改造法案大綱」と改題し、この版権を、当時彼の傘下に投じた西田税に譲り、彼をして同書の普及に当らしめた。陸軍青年将校との接触もこの頃からはじまつている。
二・二六事件の首謀者の中で、磯部、村中、香田、安藤、栗原など、一部西田税の影響下にあつて「日本改造法案大綱」の思想に共鳴する者のあつたことは事実だが、しかし事件の謀議、計画などは、北、西田共まつたく関係なく、むしろ直前までこれを抑止することに努めていたにもかかわらず、「首魁」として処断され、五十五才を一期に刑場の露と消えた。
北一輝の獄中生活は一年半に近かつたが、その間、朝夕法華経の読経に終始し、大悟せる大和尚の風格を示していた。獄中ではほとんど筆をとらず、遺書、遺詠等、書き残したものはほとんどない。刑場に臨んだ態度もまことに見事なものであつたことが、立会者の口から伝えられている。革命家、北一輝の面目躍如たるものがある。
上掲の写真は刑死の当日、在監中もつとも好意的であつた看守、平石光久氏に残した貴重な書である。
命日 昭和十二年八月十九日(第二次処刑)
戒名 経国院大光一輝居士
墓所 東京都港区麻布一本松町 賢崇寺内
河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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