水上源一


民間(二十九歳)
北海道出身、函館商船学校を経て、日本大学を卒業した。弁理士を営み、渋川善助、栗原中尉等と親しく交友していた。埼玉挺身隊事件にも関係している。
事件当夜、栗原中尉の招きにより、歩兵第一連隊の彼の許に参加し、他の民間からの参加者黒田、綿引、中島、宮田の諸氏と共に、現役の宇治野軍曹、黒沢上等兵を加えた、河野寿大尉の指揮する湯河原襲撃隊に加つた。判決では、重傷を受けた河野大尉に代り、指揮をとつたとの理由で、死刑の宣告を受けた。
湯河原に行つた同志の中で、自決した河野大尉は別として、ただ一人死刑となつた彼の、民間同志へ寄せる愛着はひとしお切なるものがあつたと想像される。同じ刑務所内におりながら、互いに交わす最後の袂別さえ許されなかつたのである。水上は名残りの手紙を書いて、看守の平石氏に托した。しかし平石氏によってそのまま秘蔵された手紙が、生き残った同志の手に渡つたのは、二十年後の昭和三十年だつたのである。
命日 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)
戒名 源了院剛心日行居士
墓所
獄中から同志へ
正ちゃ(綿引正三氏、禁錮十五年)、清さん(黒田昶氏、禁錮十五年)、西郷さん(黒沢鶴一氏、禁錮十五年)、清治さん(中島清治氏、禁錮十五年)、宇さん(宇治野時参氏、禁錮十五年)、宮さん(宮田晃氏、禁錮十五年)元気ですか、私は相変らず元気です。昨日妻子に面会致しましたら大変元気で、妻は私を激励してくれました。其の後の生活は満洲の弟が来て世話してくれたさうです、やはり他人は冷たいとか。しかし妻は初めから决心してゐたらしく、今或る仕事を練習してゐるさうです。住所はやはり東京に置くらしい。願はくば貴兄いな同志諸君、一日も早く出て国家の為め盡し、余暇あらば吾が跡を見てくれ給い。しかして小生の墓も東京附近に造るらしく、草はいてゐましたらこれを刈り取り、石なりとも目じるしに立てかけくれん事を此世に於て最後のお願ひ。
最早命も時間の問題、余す所幾ばくか。諸兄の一日も早く社会へ出られ御幸福な生活に入られん事をあの世とやらでお祈りして居ります。先は永久に永久に、左様奈良、御気嫌やう
同志諸君へ
源一

遺詠
国のためよゝぎの露と消るとも
  天より吾は国を守らん
大御心雲さいぎりて民枯る
死しても吾は雲をはらわん
昭和十一年七月八日
源一書

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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