(陸軍士官学校中退)
会津若松市七日町の資産家、渋川利吉氏の長男として明治三十八年十二月九日に生れた渋川善助は、会津中学から仙台陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学同校予科卒業の時は、恩賜の銀時計を拝受した秀才であつた。彼は、若松歩兵二十九連隊に士官候補生として配属されたが、たまたま陸士本科在学中、教育上の問題で上官と衝突し、卒業を目前にして退校処分を受けた。
その後、明治大学法科に入学し、同校卒業後は、興亜学塾、啓天(けいてん)塾(じゅく)などの民間右翼団体に関係し、国家革新運動に献身していた。この間、政友会総裁鈴木喜三郎の暗殺未遂事件「埼玉挺身隊事件」に、事件の黒幕として取調べられ、さらに昭和九年の、啓天塾一味の「高樹町郵便局事件」には、犯人の使用した拳銃が渋川のものであつたために起訴され、事件当時は、大森一声氏の直心道場に保釈中の身をおいていた。
性、剛放堂々たる体軀の偉丈夫で光佑と号し日蓮宗を信奉して御上人の愛称があつた。しかし彼はその風貌から受ける粗野な印象とは全く異つた礼儀正しい勤直な性格の持ち主で、彼が獄中で書き残した日誌は、この半面を偲ばせるに十分である。絹子夫人との間には子供はなかつた。
事件の前日、二月二十五日に湯河原におもむき、牧野伸顕伯の所在を確認、河野寿大尉にこれを引継いで帰京し、決行後は、蹶起部隊と民間側との連絡に奔走した。
泰然として刑場に臨み、刑の執行されんとするや、「国民よ、軍部を信頼するな」と絶叫したという。
命口 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)
戒名 泰山院直指道光居士
墓所 会津若松市寺町 本覚寺内
遺詠
四つの恩報ひ盡せぬ嘆こそ
此の身に残る憾なりけり
昭和十一年七月十一日 光佑コト善助
直指道光居士
祖父上様
父上様
母上様
皆々様
我不愛身命 但惜無上道
昭和十一年七月十一日 渋川善助残
河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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