中橋基明


軍歩兵中尉(近衛歩兵第三連隊)
佐賀市出身の陸軍少将垂井明平氏の次男として、明治四十年九月二十五日に生れた中橋基明中尉は、その後母方の実家佐賀市水ヶ江町の中橋家を継ぎ、中橋姓を名乗つたが、実際はほとんど実家の両親の許で成育した。東京の私立名教中学から東京陸軍幼年学校に入つた。
昭和四年七月、栗原中尉と同期の第四十一期生として陸軍士官学校を卒業し、同十月、少尉任官と同時に近衛歩兵第三連隊付となつた。昭和七年十月中尉に進み、九年三月には豊橋歩兵第十八連隊付に転じて渡満、約一年半にわたり満州で戦功をたてて凱旋、凱旋と同時に再び近衛歩兵三連隊に復帰した。時に昭和十年十二月、すなわち事件の三ヵ月前であつて、事件関係の青年将校との接触は、わずか二、三ヵ月に過ぎなかつた。
貴公子を思わせる端麗なその容姿は、革新青年将校という印象から、ほど遠いものがあつた。温和な性格であつたが、彼は、母方の祖父である中橋藤一郎の血を承けていたのであろう。祖父中橋藤一郎は、明治維新の佐賀の乱に、江藤新平の下に参加し、二十八歳にして刑場の露と消えている。三十歳であつたが、まだ独身だつた。
処刑直前、父に残した絶筆がある。
「只今最後の御勅諭を奉読し奉る。盡忠報国の至誠は益々勃々たり、心境鏡の如し  七月十二日午前五時」
皇国のため陛下のためと、身を挺して蹶起した身が今や陛下の名の下に死刑に処されんとするその直前において、なお御勅諭を奉読し、盡忠報国を誓う彼らの心境はまさに悲壮である。ここに二・二六事件の悲劇があるのである。  
命日 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)  
戒名 至徳院釈真基居士  
墓所 佐賀市蓮池町 正蓮寺内     
遺詠
五月雨(さみだれ)の明けゆく空の星のごと
  笑を含みて我はゆくなり

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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