対馬勝雄


陸軍歩兵中尉(豊橋教導学校)
対馬勝雄中尉は、青森市相馬町五八に海産物商を営む対馬嘉七氏の長男として、明治四十一年十一月十五日に生れた。青森中学から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業した。栗原中橋両中尉と同期の四十一期生である。少尉任官と共に弘前歩兵第三十一連隊付となり、連隊旗手を勤めた。満州事変に出征し戦功によって功五級を授けられ、凱旋後の昭和九年三月、豊橋陸軍教導学校付となつた。同年十二月、同地で静岡の松永正義氏の娘、千代子と結婚した。 
二月二十三日、行動参加を決意した彼は当時産後で入院中であつた夫人を、保養を囗実に静岡の実家に帰している。長男好彦が生れたのはその前月であった。
 豊橋の駅の別れの名残りにと
 吾子をのぞけば眠り居にけり
戦場に臨む武士の心境に似て哀れである。
対馬中尉の革新への決意はまことに強く、同期の栗原中尉らと同志をちかい、また磯部、村中氏等との交りも深かつた。事件は東京部隊を中心に計画されたのであつたが、ただ一つ地方部隊の豊橋で同時決行が計画されたのは、対馬中尉が同地にあつたためで、同中尉を中心とした同志の豊橋部隊動員に期待したためである。

ここで対馬中尉の面目躍如たる一つの挿話を紹介しよう。秋田の歩兵第十七連隊に、菅原という軍曹がいた。昭和六年の十月事件の際、対馬中尉は菅原軍曹と共に、死を期して相携えて上京したことがあつた。その菅原軍曹が昭和八年、満州北鎮で匪賊と戦って戦死した時、対馬中尉は他の連隊にあつたが、階級を離れ盟友として押してその告別式に参列し、軍曹の遺骨の一片を食べて霊前に死を誓つたという。もつて中尉の人となりをうかがい知ることができよう。
命日 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)  
戒名 義忠院心誉清徳勝雄居士  
墓所 青森市外三内墓所内     
遺詠
日は上り国の姿も明るみて
  昨日の夢を笑ふ日も来ん
 昭和十一年七月十日 草莽微臣 対馬 勝雄

皇位天皇之神格也 地上最高天与使命也
至愛至誠不可侵
 昭和十一年七月十日 草莽微臣 対馬 勝雄

辞世
ひと粒の種はくさりてちよろづの
  実を結ぶこそ誠なりけれ
 昭和十一年七月十二日 邦刀

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
原本PDF(46.3MB)