陸軍歩兵中尉(豊橋教導学校)
竹島継夫中尉は明治四十年五月二十六日、滋賀県甲賀郡土山町に、陸軍少将竹島藤次郎氏の長男として生れた。東京府立第四中学校から東京陸軍幼年学校を経て昭和三年七月、陸軍士官学校を卒業した。河野寿大尉と同期の第四十期生であつて、成績抜群、恩賜賞のトップという秀才であつた。しかし秀才型に似合わぬ磊落(らいらく)な性格の持主で、同年十月少尉任官と共に若松歩兵第二十九連隊付となり、連隊旗手を勤めた。
昭和六年、満州事変の勃発と同時に出征し、武功をたてた。同年十月中尉に進み、八年一月内地に凱旋、その後、九年八月、豊橋教導学校歩兵隊付となつた。事件直前、興津の西園寺公襲撃について、同志間に意見の対立が起ると急遽、その計画を中止し、対馬勝雄中尉と共に相携えて上京、東京の本隊に合流した。
彼は事件参加を決意するや、結婚後わずか三ヵ月の夫人を離別して、後顧の憂いを断つている。もつて彼の牢固(ろうこ)たる信念の程を知ることができよう。
また刑死の数日前のことであつた。彼は房内で正座して、しきりに毛筆を動かしていた。描いていたものは達磨の墨絵(すみえ)であつた。折から巡視中の看守平石光久氏は、当時連座して在監中の大蔵栄一氏に「竹島中尉が達磨の絵を描いていますよ」と知らせてくれた。「臨命終」で描いた達磨の筆致の雄径(ゆうけい)さには驚嘆の外ない。この絵は無事遺族の手に渡された。
命日 昭和十一年七月 十二日(第一次処刑)
戒名 竹鳳院禅巖継道居士
墓所 滋賀県甲賀郡南土山 常明寺内
遺詠
喜びの久しく茲に積り来て
千代に八千代に栄え行くらん
しばしして人の姿は消へぬるを
唯捧げなん皇(すめら)御国(みくに)に
三十年間如朝露
一超直入如来地
昭和十一年七月 竹島 継夫
河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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