陸軍歩兵大尉(歩兵第三連隊)
安藤輝三大尉の厳父は、岐阜県揖斐郡揖斐町三輪出身の安藤栄次郎氏で、当時慶応大学普通部の教職に在つた。同氏の三男として明治三十八年二月二十五日に生れた彼は、父の転任につれ少年時代を鹿児島、石川、栃木、長野と移つて過した。宇都宮中学から仙台陸軍幼年学校へ、さらに陸軍士官学校と進んで大正十五年七月、陸士第三十八期生として卒業、同年十月少尉任官と同時に歩兵第三連隊付となつた。磯部浅一氏と同期生であり、当時の陸士校長は、真崎甚三郎大将であつた。昭和四年十月、中尉に進み、六年には静岡市の佐野益蔵氏の長女房子と結婚し、輝雄、日出雄の二児をもうけた。昭和九年八月、大尉に昇進して大隊副官となり、同十年一月には歩兵第三連隊第六中隊長となった。安藤大尉は、平素、日蓮宗を信じており、硬骨漢であつたが情誼に厚く、部下を愛することは人一倍で、給料のほとんどを部下のためにさいてしまうほどで、部下の彼に寄せる尊敬と信頼はまことに強いものがあった。
彼は早くから革新青年将校の指導的立場にあり、安藤が起てば三連隊は動くとまでいわれたほどの期待と信頼を浴びたが、本事件の決行については、時機、方法等に関して最後まで磯部、村中、栗原、河野等の決行派と意見を異にしていた。したがって事件の首脳将校中では、蹶起の決意がもつとも遅かつた人である。この安藤が決行へ踏切つた時が、二・二六事件の導火線に口火がきられた時であつたともいえる。
秩父宮殿下の信任のきわめて厚かつた人である。
命日 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)
戒名 諦観院釈烈輝居士
墓所 東京都北多摩郡 多摩墓地内
辞世
一切の悩みは消えて 極楽の夢
十二日朝 安藤
尊皇討奸
尊皇の義軍やぶれて寂し春の雨
心身(こころみ)の念(おもひ)をこめて 一向(ひたふる)に
大内山に光さす日を
処刑の血に染まった最期の遺書
体卜共二家族ニオ渡シ下サレ度シ 安藤輝三
係官殿
と認(したた)められた白い封筒には、黒ずんだ血がまみれていた。中には松陰神社の御札と一緒に、四枚の半紙に書いた絶筆が入つていた。折畳んだ半紙の中にまで血痕が浸み通つていた。上掲写真に見る黒いシミがそれである。
「十二日朝直前 輝三」と署名してある通り、その朝最後の時を待ちつつ認めた遺書を、彼は懐中深く肌身につけ、泰然として刑場に臨んでいつた。その態度は書き残された言葉と共に、死に臨んで従容せまらざる古武士の俤をほうふつとして偲ばせる。かくて遺書は銃弾による絶命最期の血潮を、まざまざと印したのである。まこと見る者をして眼をおおわしめるものがあろう。(写真参照)
しかしながら、死の前日十一日の夜に認(したた)められた、
「国体を護らんとして逆徒の名 万斛(ばんこく)の恨(うらみ) 涙も涸(か)れぬ あゝ天は 鬼神 輝三」
の書や、同期生代表に宛てた、
「さよなら 万斛(ばんこく)の恨を御察し下され度し 断じて死する能はざる也 御多幸を祈る 昭和十一年七月十一日 安藤 輝三」
さらには、歩三の第六中隊員に宛てた、
「我はたゞ万斛(ばんこく)の恨と共に、鬼となりて生く 旧中隊長 安藤 輝三 昭和十一年七月十一日」
などの文中にみなぎる安藤大尉の痛恨は、果して一夜にして、
「一切の悩みは消えて 極楽の夢」
を結び得たであろうか。
最後まで革新に激情を燃やしつづけた彼の心情に思い至るとき、涙なきを得ない。
また、二・二六事件の背後には故秩父宮殿下の存在が種々取沙汰されているが、その秩父宮にもつとも近かったのは安藤大尉であつた。殿下との関係は、安藤が陸軍士官学校在学当時に始まつている。秩父宮が、当時摂政宮代理としてイギリスにおもむかれた際、旅先から五通もの長文の手紙を、当時の安藤士官候補生宛に書き送つておられる。これを見ても、宮様と安藤の交遊がいかに長く、深いものであつたかが伺われる
のであるが、その秩父宮が歩兵第三連隊に配属されると、安藤もまた、少尉任官後同じ第三連隊に配属されているのである。
殿下が「蹶起の際は、一個中隊の兵を率いて迎えに来い」と仰せられたことが、坂井直中尉の言として、中橋基明中尉がその遺書に書き残している。(中橋基明遺書二四八頁参照)殿下亡き今日、この間の真偽は確かめるに由ないが、安藤ら青年将校に及んだ殿下の指導力の程がわずかに察知せられて、深い関心をそそるのである。
安藤大尉の刑死後、秩父宮から安藤の遺族に対し、遺書を見せて欲しい旨の御申入れがあつた。その時、遺族が持参して御目にかけたものの一つが右の写真であるが、再び遺族の手に戻された時には、立派に表装された軸物となつていた。
秩父宮の御意中をどう忖度(そんたく)すればよいだろうか。
奔放な書体に溢れる安藤大尉の悲懐が、惻々(そくそく)として胸を打つのである。
河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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