香田清貞


陸軍歩兵大尉(歩兵第一旅団副官)
香田清貞大尉は明治三十六年九月四日、佐賀県小城郡三日月村久米に、香田卯七氏の長男として生れた。同村小学校を首席で卒業して小城中学に入学した。二年の時、熊本陸軍幼年学校に入り、ついで陸軍士官学校に進み、大正十四年、村中孝次と同期の第三十七期生として卒業した。同十月、少尉任官と共に歩兵第一連隊付となつた。昭和九年三月大尉に進み、歩兵第一連隊の中隊長となつたが、間もなく北支天津駐屯軍の歩兵中隊長として出動し、約一年の後、十年六月凱旋した。事件三ヵ月前の十年十二月、第一旅団副官に転じていた。
香田大尉は日蓮宗を篤く信奉して、平素つねに法華経(ほっけきょう)を誦していた。信念の強い不言実行の人、この香田大尉が事件の首謀者として参加していたことは、非常に意外であつたといわれている。中尉時代、富美子夫人と結婚し、家庭には一男一女があつた。
決行後は蹶起部隊代表者として終始陸軍首脳者との折衝に当つた。判決では首魁(しゅかい)として処断されている。
彼が残した遺詠、遺書等は、信仰の人香田大尉の面影を歴然と偲ばせる。運命を諦観した心境は安心立命、自ら音頭を取って聖寿の万歳を三唱し、整然と刑場におもむいた。これは、同志青年将校中の最年長者として、若い将校たちに堂々たる最期をかざらせた力強い指導力であつたに違いない。
命日 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)
戒名 清貞院義道日映居士  
墓所 佐賀県小城郡三日月村 泰平寺内
辞世
ひたすらに君と民とを思ひつゝ 
  今日永えに別れ行くなり
 昭和十一年七月十二日 卅四歳 香田清貞

父への遺詠
殊更に笑ひたまへる父君の 
  心の中ぞおし計られけり
 昭和十一年七月十一日 長男 香田清貞

妻への遺詠(五首の内)
ますらおの猛き心も乱るなり 
  いとしき妻の末を思へば
我を我と育て上げけり諸共に 
  いとしき妻の力なりけり
 昭和十一年七月十二日 夫 香田清貞

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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