河野寿


陸軍航空兵大尉(所沢飛行学校)
河野寿大尉は原籍熊本市花園町の海軍少将河野左金太氏の三男として、明治四十年三月二十七日に佐世保市で生れた。海軍軍人の父の転任につれて、幼少時代を佐世保、旅順、佐世保と転じ、父の退官を機に熊本に落着いた。大正十年、熊本の中学済々黌(せいせいこう)から熊本陸軍幼年学校に入学、同校からさらに陸軍士官学校に進んで、昭和三年卒業した。陸士の第四十期生であり、同期には竹島継夫中尉がある。同三年十月、砲兵少尉任官と共に、横須賀重砲兵連隊付となつた。昭和五年十月中尉に進み、この間砲工学校を終えたが、同校在学中に、在京の革新青年将校との交遊が始まつた。昭和八年、千葉市川の野戦重砲兵第七連隊に転じたが、同九年二月所沢陸軍飛行学校に機関科学生として入学し航空兵科に転科した。十月卒業と同時に航空兵中尉となり、満州公主嶺飛行隊に転出した。十年八月大尉に進級と同時に、再び所沢飛行学校に入学し、操縦科学生として在学中であつた。

厳格な軍人の家庭に育つた彼の剛直な性格は、早くから革新への熱意に燃え、村中、磯部、栗原等との交りは特に深く、本事件についても常に決行派の急先鋒として、単独決行も辞さない決意をもつて在京部隊同志を推進した。単身所沢から参加し湯河原に牧野伸顕伯を襲ったが、警衛警官の拳銃により受傷し、熱海陸軍衛戍病院に入院中、三月六日自刃して果てた。
陸軍大臣、在監同志及び国民に宛てた遺書を残しているが、肉親に宛てたものは一つもない。かねて革新のための捨身を心に期していたか、結婚話には耳も籍(か)さなかつた革命児であつた。
命日 昭和十一年三月六日
(熱海陸軍衛戍病院において自刃)
戒名 徹心院天嶽徳寿居士
墓所 横須賀市浦賀紺屋町 東福寺内                             
辞世
あを嵐 過ぎて静けき日和かな   
 昭和十一年三月五日
  於熱海 河野寿
瀬戸軍医殿

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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