野中四郎


陸軍歩兵大尉(歩兵第三連隊)
野中四郎大尉は明治三十六年十月二十七日、岡山市船頭町に、陸軍少将野中勝明氏の四男として、誕生した。その後同じ岡山市下石井に住む野中類三郎氏の養子となつたが、少年時代は多く実家で成長した。
大正六年、彼は、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校を卒業した。陸士三十六期生、事件参加将校中の最古参者であつた。同十三年十月少尉任官後、歩兵第一連隊付となり、十四年五月、さらに歩兵第三連隊に転じた。昭和八年八月大尉に進み、歩兵学校卒業後、歩兵第三連隊第五中隊長となつた。
厳格な軍人の家庭に育つた彼の真面目一徹の性格は平素「野中型」といわれるほどの厳正さであつた。また熱烈な国体主義者であつたが、直接行動は排撃していた。しかし社会情勢の変化と緊迫とは、同隊の安藤輝三大尉等の影響を加わつて、遂に彼をして歩兵第三連隊の先導として蹶起せしめた。
決行前の二月十九日、週番司令室において認(したた)めた覚悟の遺書と見るべきものがある。雄渾(ゆうこん)なる憂国(ゆうこく)の文章である。また「蹶起(けっき)趣意(しゅい)書(しょ)」は、彼の草案に村中孝次氏が筆を加えてでき上つたものといわれている。
二月二十九日、事件が終り全将校が陸相官邸に集結した時、彼は別室で、拳銃をもつて見事に自決し果てた。蹶起全部隊の代表者としての責任を負つた壮烈な最期であつた。昭和九年、増田疇彦氏の娘、美保子と結婚し、長女保子をもうけていた。
命日 昭和十一年二月二十九日
(陸相官邸において自決)
戒名 直心院明光義剣居士  
墓所 岡山市平井町墓地内

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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