西田税


(元陸軍少尉 三十七歳)
西田税は明治三十四年十月三日、鳥取県米子市博労町一ノ一一八番地で、父、久米造氏の次男として生れた。
大正四年九月広島陸軍幼年学校に入学、次いで陸軍士官学校に進み、大正十一年、第三十四期生として卒業、朝鮮の騎兵第二十七連隊付となり、同年十月、騎兵少尉に任官した。士官学校時代、秩父宮殿下と同期で、殿下との接触はことに深いものがあつたといわれている。頭脳明晰、抜群の成績であつたが、すでに在学中から国家革新への情熱を胸に燃やしつづけていた。
大正十三年、広島の騎兵第五連隊に転任したが、病気のため十四年六月、依願予備役となつた。軍職を退くと共に上京して、かねての志通り、大川周明、安岡正篤、満川亀太郎等の行地社に入り、国家革新運動の実践へ第一歩を踏み出した。
大正十五年、北海道御料林払下問題に関係して起訴され、昭和五年有罪を宣告されて失官し、完全に軍籍を離れた。
ところで、西田の行地社での活動は長くつづかなかつた。大川周明と疎隔して脱退した彼は、やがて北一輝の傘下に入つた。大正十五年四月頃、北から「日本改造法案大綱」の版権の委譲を受けて、これを出版した。初子夫人との結婚もこの年である。
昭和二年、西田は士林荘を結成し、さらに同年七月頃、海軍の藤井斎少佐等と共に天剣党の結社を試みたが、成功しなかつた。ここにおいて国家革新運動の政治的進出に志し、昭和四年秋、中谷武世、津久井竜雄等と日本国民党を組織して統制委員長となつたが、ここも彼には長続きする舞台でなかつた。

この間にも、西田と陸軍青年将校との接触は緊密につづけられていた。ところが昭和七年の五・一五事件の際、事の行き違いから、陸軍側青年将校の参加を阻止したという誤解を受けた彼は、川崎長光に狙撃され、瀕死の重傷を負つた。しかし北一輝の肉親的庇護(ひご)によつて、彼は九死に一生を得ることができた。これが縁となり、以後急速に親密さを加えた両者は、日本改造法案大綱を中心とした国家革新運動へ直進していつた。
血盟団、五・一五事件と相次ぐ事件の勃発は、北、西田の影響下にあった菅波三郎、大岸頼好、大蔵栄一、末松太平、安藤輝三、村中孝次、磯部浅一、栗原安秀等の陸軍青年将校の行動を急速に尖鋭化していつたが、これに対し西田は、国家革新の大成を期すためには時機の到来を待つべしと、つねに同志の軽挙を抑えていた。しかし、相沢事件によつて在京青年将校の動きはさらに活潑化し、ついに第一師団の渡満前に決行する気運となつた。西田はなおも時期尚早を称え、極力抑止の説得に努めたが、二月二十日頃磯部、村中等から決行の計画を知らされて、ついに静観の態度をとらざるを得なかつた。
判決で首魁と断ぜられた西田は、昭和十二年八月十九日、同志処刑から一年余を経て、代々木刑場の露と消えた。一代の革命児と呼ぶにふさわしいその一生であつた。
命日 昭和十二年八月十九日(第二次処刑)
戒名 義光院機猷税堂居士
墓所 鳥取県米子市博労町 法勝寺内
最後によめる歌八首
限りある命たむけて人と世の
幸を祈らむ吾がこゝろかも
あはれ如何に身は滅ぶとも丈夫の
魂は照らさむ万代までも
国つ内国つ外みな日頃吾が
指させし如となりつゝあるはや
はゝそはの母が心は腸を断つ
子の思ひなほ如かめやも
ちゝのみの父らまち給ふ風きよき
勝田ヶ丘のおくつき所
うからはらから世の人々の涙もて
送らるゝ吾は幸児なりけり
君と吾と身は二つなりしかれども
魂は一つのものにぞありける
吾妹子よ涙払ひてゆけよかし
君が心に吾はすむものを
 昭和十二年八月十七日
  残れる紙片に書きつけ贈る

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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