丹生誠忠


陸軍歩兵中尉(歩兵第一連隊)
丹生誠忠中尉は明治四十一年十月十五日、海軍大佐丹生猛彦氏の長男に生れた。母は陸軍中将大久保利貞氏の女であるから、純粋の薩摩隼人(はやと)である。しかし少年時代は父の任地を転々とし、生地の鹿児島市草牟田町に生活したのは大正十三年に、鹿児島一中に転入した時だけで、それもわずか一年ばかりで上京し、東京麻布中学に入つた。ついで陸軍士官学校に入学、昭和六年に卒業した。四十三期生である。同十月、少尉に任官と共に歩兵第一連隊付となり、九年三月中尉に進んだ。翌年、東京に住む山口滝之助氏の娘、寸美奈子と結婚した。なお母方の関係で、当時の内閣総理大臣岡田啓介大将と姻戚(いんせき)関係になっているのも、奇縁である。
丹生中尉始め青年将校らが事件後、東京代々木の陸軍衛戍刑務所に収容されると、同刑務所看守のうち、平石、林の両氏は特に好意をよせて処遇してくれた。青年将校のほとんどすべての人が、両氏に感謝の言葉を書き残している。丹生中尉が平石氏に与えたものには、遺詠の後に、
「入所中の甚深なる御厚情を深謝す、願はくば我等 の真精神、公判の真相を世に伝へ給へ  昭和十一年七月七日 陸軍歩兵中尉 丹生 誠忠 平石光久殿」とある。

蹶起の真精神を歪曲(わいきょく)され、非合法な裁判の下に一方的に葬り去られることの憤懣は、誰かに託して世に伝えてもらいたかつたに違いない。笑つて死んでいつた彼等ではあつたが、これは偽らざる心情であろう。
命日 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)
戒名 丹節院全生誠忠居士  
墓所 未埋葬、東京都港区麻布一本松町 賢崇寺に安置
辞世の歌
むら雲に妨げられし世をすてて
  富士の高嶺に月を眺めん
 昭和十一年七月七日 丹生誠忠

順となり逆(さかさ)となりて一筋に
  つくす誠はかはらざりけり
    (逆(さかさ)は逆賊の意に非ず)
 昭和十一年七月九日 丹生 誠忠

母への遺詠
母上の心やすしと吾きゝて
  よみ路の旅に急ぎたちなん
 昭和十一年七月八日 誠忠

妻への遺詠
身とともに名をもけがして大君に
  つくす誠は神や知るらん
強く生き優しく咲けよ女郎花(おみなえし)
 昭和十一年七月九日 誠忠

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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