栗原安秀


陸軍歩兵中尉(歩兵第一連隊)
栗原安秀中尉は佐賀県神崎郡境野村出身の陸軍大佐栗原勇氏の長男として、明治四十一年十一月十七日出生した。しばらくして東京に移り、目黒区駒場の家に育ち、やがて名教中学から陸軍士官学校に入つた。昭和四年陸士第四十一期生として卒業、同年十月少尉に任官と同時に歩兵第一連隊付となり、聯隊旗手を勤めた。事件の中橋、対馬両中尉と同期である。
昭和七年の上海事変には、機関銃隊付として出征した。七年十月中尉に進み、八年五月には戦車第二連隊付となつたが、十年三月、再び歩兵第一連隊に復帰した。
かねてから革新青年将校の急先鋒として知られ、民間側同志との交渉接触も深く、その積極的活動は注目の的となつていた。本事件においても、磯部、村中、安藤、河野等と緊密に結び、同志青年将校の主導的役割を果した中心人物である。またこの事件に、多くの民間側同志が参加したのも、栗原中尉との結びつきによる。判決に際して首魁(しゅかい)として処刑されている。
彼と玉枝夫人との間にはまだ子供はなかつた。駒場の父、勇大佐の屋敷内に、ささやかな別棟があって、ここが二人の新婚生活の住居であつた。大通りから少し入つた崖下の静かな一劃は、蹶起計画を練る首脳将校達のこよない会合場所となつて、数次の謀議がめぐらされた。二月二十六日決行の最後の断が下されたのもこの家である。
獄中で栗原は、父母および夫人に対して長い遺書を書いた。激情家であつた反面、情にもろい性格でもあつたようだ。父母への遺書の最後に、「昭和十一年七月四日夜。明五日愈々(いよいよ)判決宣告ある旨を知り、心密(ひそ)かに決するところあり、残燈の下これを認(したた)む、胸中既に一片の雲なし、悠々たる大丈夫の決意、天空濶大にして光明を知る」と結んでいる。(編註・この二つの遺書は内容が個人的に亘るので掲載しなかった。)栗原が判決前、すでに死を覚悟していたことは右の遺書でも明らかであるが、宣告を終つて獄房に帰つて来た彼が、誰に語るともなく独語した言葉は「多過ぎた」の一語だつたという。死刑の判決を受けたもの十七名の数は、夢想だにしなかつたのであろう。  
命日 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)  
戒名 至誠院韜光沖退居士  
墓所 横浜市保土ヶ谷区今宿町鶴ヶ峯 薬王寺内     
遺詠  
君がため捧げて軽きこの命
  早く捨てけん甲斐のある中
 七月七日 双安生
 
道の為身を盡したる丈夫の
  心の花は高く咲きける
 七月十日 安秀

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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