陸軍歩兵中佐
相沢三郎中佐は、明治二十二年九月九日、仙台市東六番丁一番地に生れた。明治三十六年九月、仙台陸軍幼年学校に入学し、ひきつづき陸軍士官学校に進み、同四十三年卒業と共に、仙台歩兵第四連隊に配属となり同年十二月、歩兵少尉に任官した。当時同連隊に中隊長として在られた東久邇宮殿下の中隊付となり、殿下の寵愛を受けた。
以来、各地に勤務し、累進して昭和八年八月、歩兵中佐に進級と同時に、歩兵第四十一連隊付(福山)となつた。
相沢中佐は昭和四、五年頃から、わが国の情勢に深い関心を寄せ、これが革新の要を痛感し、以後同志として大岸頼好、大蔵栄一、西田税、村中孝次、磯部浅一等と相識るに至つて、ますますその信念を強めた。たまたま同九年、村中、磯部等のいわゆる十一月事件の発生、ついで真崎大将の教育総監更迭、さらに八月一日付の台湾歩兵第一連隊付の転任命令を受けるに及んで遂に決意し、八月十二日陸軍省において永田鉄山軍務局長に「天誅」の軍刀をあびせて、これを殺害した。
この事件により彼は軍法会議に付されたが、審理中に二・二六事件が勃発し、そのため公判は非公開となり、五月七日、死刑の判決を受けた。上告棄却の後同年七月三日、代々木陸軍衛戍刑務所において銃殺された。蹶起将校等の処刑に先立つ九日前である。
相沢中佐はその青年将校時代、仙台市北山輪王寺住職福定無外師の許に入禅して薫陶(くんとう)を受けた。生来の謹厳なる性格に加え、骨の髄までの精神家であつた。剣道をよくし、陸軍部内有数の達人でもあつた。よね子夫人との間に一男三女がある。
命日 昭和十一年七月三日
戒名 鉄肝院忠誉義徹居士
墓所 仙台市新坂通 充国寺内
辞世
まごころによりそう助けかひありて
仕へはたして今帰へるわれ
七月二日午後十一時
米子へ 三郎
河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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