磯部浅一


(元陸軍一等主計)
磯部浅一は山口県大津郡菱海村河原の出身で、明治三十八年四月一日農業を営む父、仁三郎氏の長男として生れた。郷里の小学校を終え、山口市伊勢小路武学養成所から広島陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入つた。大正十五年卒業の陸士第三十八期生である。同期生に安藤大尉がいる。同年十月少尉任官と共に朝鮮咸(かん)興(こう)の歩兵第七十四連隊付となり、昭和三年中尉に進んだ。昭和七年六月、陸軍計理学校に入学して主計将校に転じ、八年卒業して二等主計となり、近衛歩兵第四連隊付、野砲第一連隊付を経て、九年八月、一等主計となった。
彼は前項の村中孝次と同じく、つねに革新青年将校の急先鋒として活躍し、北、西田等民間同志との連絡も深く、注目的存在であつた。昭和九年四月、いわゆる十一月事件によつて、村中と共に停職処分をうけ、その後「粛軍に関する意見書」問題で、村中と共に免官となつた。
以後、隊外における彼の活動はますます積極的となり、急進断行論を持して、青年将校同志の河野、栗原、田中等の決行派と組み、ついに本事件の首謀的役割を果した。
理論家村中孝次に対する磯部は、一にも二にも実行一点張りであり、その上、村中の短軀に対する磯部の魁偉(かいい)な風貌はまつたく対蹠的で、これらが両々相俟つて牽引車となり、事件を決行に導いたのである。彼が残した多数の遺書に、熱血革命児磯部浅一の本領がうかがえる。北一輝の「日本改造法案大綱」にもつとも傾倒した一人である。
磯部は第一次判決において死刑の宣告を受けたが、北、西田裁判の関係上、村中と二人だけ、刑の執行が延期され、以後処刑まで、一年以上にわたつて在監した。この間、「歎願書」などの文書を獄外に送り出して怪文書の種を作り、また長文の「獄中手記」「獄中日記」等を綴つて、事件の真相を書き残した。貴重な歴史的資料として珍重されるものである。
命日 昭和十二年八月十九日(第二次処刑)
戒名 深廣院無涯菱海居士
墓所 東京都墨田区千住小塚原 回向院内
辞世
国民よ国をおもひて狂となり
  痴となるほどに国を愛せよ
三十二われ生涯を焼く情熱に
  殉じたりけり嬉しともうれし
天つ神国つみ神の勅(チヨク)をはたし
  天のみ中に吾等は立てり
わが魂は千代万代にとこしえに
  厳めしくあり身は亡ぶとも

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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