磯部浅一手記

手記について

一、手記中「余の経歴と革命精神の発展」は士官学校丗七、八期生以降の青年将校が如何なるフンイ気の中に如何にして維新革命の運動に没入するに至れるかの一端を知ることが出来ると思ひます 現在の老人将校と吾々青年将校とは育つた所の社会状勢が非常にちがひ随って生活体験がちがふことを推察していただきたく思ひます

二、仝じく「兵士を通じて観たる庶民階級の窮状及び軍隊の実情その他」は兵と青年将校が同志的一体感を有するに至る体験の一端であります 老年将校はいざ知らず青年将校の九割九分は青年兵士と一体でありまして兵士が家庭の窮状と社会の不合理を言はず語らずの間に青年将校に訴へる時に之を知った青年将校は国家社会の不正不義を正さうとと思ひ又庶民階級を救ってやって在営兵をして真に後顧の憂なからしめんとの感激にもえる事は当然であり而して非常に尊い事であります。然るに軍内高級将校の中には青年将校が何者か部外者に煽動されて改造運動をやる様に云ふワカラズ屋が居りますが青年将校とはそんなものではありません。 決して煽動されて居るものでなく皆兵士との一体的生活体験から維新を考へるようになるのであります。尚特に銘肝すべきは国家の改造を真に求めて居るものは青年将校よりも下士官兵であると云ふ事ですそして下士官兵は革新運動の主体あると云ふことです この点をはっきりと認識してすべての事を處置しないと今に軍の全将校が下士官、兵によって非認される時が参ります。否最早すでに多くの将校を兵士が非認して居りますそして此等の兵士は機会あらば威張り散らす上官に一矢を放たんとねらっています。この点に関しては幾多の恐るべき実例があります

三、仝じく「軍隊の腐敗と皇軍私兵化の実状」はよくよくがん味していただきたく存じます、実際に軍隊はくさり切っています、よくよく観察していただきたく懇願します、

四、仝じく「獄中感懐」は断片的な所感すぎませんが私の昭和維新に対する精神態度であります 維新革命と云ふことは祈りであると云ふこと、我が国は神国であると云ふこと、等から我が尊厳なる国体に対する私の信仰信念をも御考察下されば幸甚の至りであります

余の経歴と革命精神の発達

余は長州の一漁村なる貧農の三男に生まれた。少年時代から負けじ魂は村童を圧して居た。特に村の支配者たる分限者(方言、金持ノコト)の子弟に対しては常に自ら貧乏人の子弟の代表として争い、決して譲らなかった。そしてその頃から子供の世界にも貧富があり又正義と不義があることを知り、金持の子供の不義が貧乏人の子供の正義を負かすことを見、如何に考へてみても腑に落ちない所の社会の不合理を感じた。爾来余は貧乏人をいぢめる人達がシャクにさわってならす、村の権力者を金持等から受ける権力的経済的圧迫に対し非常なる反撥心を起し、ひた走りに勉強をした。

此の様な性格をもつ余を励まして呉し者は小学校の先生と母であった。先生が教壇から熱膓を吐露して説く忠臣、義士の話は余の耳に陣太鼓の如く勇ましく聞えた。「俺も楠正成公の様になるのだ松陰先生の様な維新の志士になるのだ」と思って勇み勵んだ。又母は冬の夜の口邊で、春の日の田畑で常に勧善懲悪の佛法を説いて呉れた。母と先生とはみじめな少年時代に於ける二つの光明であった。今に見ろ、偉くなって悪い奴を皆やッつけて気の毒な人達を救ってやるのだ。そして天子様に忠義を盡すのだと云ふ子供らしい義憤に燃えた。

小学校を卆へて広島幼年学校へ入校した此處では人生非常の歓びに會うことが出来た、それは山田先生、佐々木の二人の信友を得たことである。始め此の二人とは相鼎立して争った、その争ひは決して婦女子の争ひではなく互ひに堂々正義を持して譲らざる争いであった。余の強烈な正義観は二人の信友との争ひによって益々磨かれた、上級生徒の暴慢に対して敢然抗したり、校付下士官の無礼に対して断乎反撃したり、生徒監等の不当に対し不屈の意気を示したりした事は、単なる稚気の為あらずして支配的上級者の不義に対してする義憤の爆発の為であった。

此の学窓生活に於て得た他の大きな歓びは一死殉国の大精神をたたき込まれた事で、純潔無垢なる少年の魂に焼き付けられたる「海行かば水つく屍山行かは草むす屍大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ」の殉国精神は次第に余の生活原理となり行為の法則となった。それ以来余はササたる私憤私悶を自戒する様になって志は天下国家に向ひ山田、佐々木の両友友とも皇家の前途を談じ憂国の詩を吟じ合って赤心報国を誓ひつつ交情益々密になった。

陸軍士官学校に入校してからは只管に道を求め出した、一死報国の誓ひを立ててひたむきに進む余の心中に忽然として生死問題に関する疑惑、煩悶を生じたのである、佛書に親しみ僧師を訪ね求道生活に余念なかったけれども何等解決さるることなく物足らぬやるせなさを胸に秘め二年の課程を了へて朝鮮の歩兵聯隊へ士官候補生として入隊した、

在隊間私かに佛書をたん讀し又僧侶を訪ねて道を求めたが悟入することは益々難事であった。されど日蓮上人の偉大なる宗教的人格とその烈々巨人の如き救民愛国の大信念とは余をして剣を把かる日蓮の大自党に燃えしめた。大陸の一角から母国を顧み又亜細亜興亡の跡を尋ねみて大日本帝国の使命が全亜細亜の道義的統一にあるを痛感し剣とコーランを持する日本民族の聖戦に想を致し、無量の感慨を抱き勇躍して士官学校本科に入った。

當時士官学校内に国家改造運動に関する有志会が出来てそれ等有志が極秘の活動によって同志を求めていた。余が天剣党宣言を入手して感動し、又盛んに行地社出版の志士傳、時事問題パンフレット等を讀み、或は大学寮に西田氏を訪ひ等したるは皆當時の事にして士官学校本科時代は余にとりて国家改造運動に関心を有するに至りたる最初の時機であった。

本科卒業帰隊後は一面大陸発展の鴻図を書き満支国への進入を感へたるも、續々として発生する国家内外の重大問題に晏然たるを得ず焦心切歯憤激止む能はさるものばかりであった、赤色露国の魔手のびて思想国難、ワシントン絛約の結果より来る海防危険、陸軍軍備縮小、の結果より来る満洲に於ける帝国権益の侵害、農山漁村の疲弊、ロンドン絛約に於ける再度の国際的譲歩、並びに上層為政者群一連の結託による兵馬大権の干犯、政党、財閥の国政のロウ断より来る民意圧迫、国威失墜、等党内外の国難澎湃として来る。神州真男児たるもの決然皇亊に参ぜすんば止めぬ状態であった、茲に於て余に幾度か軍職を去り志を天下に伸べんとしたるも将さず、遂ひに中鮮の山邑に駐屯六年大望を圧縮さること亦六年、如何とも出来なかった、眇眇の身を以て回天の大志を抱けは憂憫も亦限りなく大である。然しながら此の苦悩の六年は余をして腐敗軍隊の内情にげうせしめ兵卒を通して庶民階級の窮状を知悉せしめ、有形的、無形的、国家の欠陥に真徴せしざるに遺憾なく、沖天の憤激を覚え捨身奉公の決意を堅固ならしめた、

任官以来。軍隊教育に任すること僅か六年にして幾百の不遇悲惨なる兵士に接し相擁して慰めたること、相抱きて泣けることは屡々であった 教官殿教官殿と慕いつつ逝きてかへらざる悲運の教へ子の為にいよいよ不惜身命の祈りを捧げ、国家社会の不正不義に対して葬ひの一戦を決意し昭和六年余は断然軍職を去り広く天下に同志を訪はんとした。

俄然日支間の兵戦勃発す而も母国の上下は徒に喧騒にして、腐敗上層階級の反省は未だし、国家改造断行の気運は進みたれども熟せずして十月事件は未発に失す、幸ひに血盟団二士の成功は見たれども五・一五の犠牲は無益に終り維新は終に逆轉せんとする、昭和七年六月暗騰たる風雲の中を志士国士との交遊を第一の目的として東都に遊学、陸軍経理学校に入校した。爾来五星霜、神聖一君の為、赤子万民の為死所を得んとして維新革命風塵の中と邁んだ。

附言

以下記する所は朝鮮連隊勤務間に感得したる兵卒家庭の窮状並びに兵と教官たる青年将校の同志的一体感の一例である
義軍事件に蹶起せる下士官、兵は皆青年将校の同志たることを明確に認識してもらいたい。国家国民の窮状を考える程の青年将校が軍隊の下士官、兵と如何に魂のどん底に於て觸れ合っているかを明確に明確に認識して誤りなき事を切願する。今や日本は革命を要する。元老、重臣、軍閥、政党、財閥、而して九千万国民の魂のどん底から革命するを要する。

革命を避けんとするものは重臣、軍閥、財閥等一切の支配勢力である真に革命を求めて止まぬものは青年将校にあらず右翼團体にもあらずして庶民階級であり、軍隊に於ては下士官、兵であることを知らねばならぬ。

兵士を通して観たる庶民階級の窮状又軍隊の実状その他青年将校の兵士と苦楽を共にし死生を同うする忘我的生活程尊いものはない。凛烈の寒風に兵士と共にさらされる時に、兵士に身上を訴へられて秋の夜長を泣き明す時、或は皇室の尊厳と国体の秀絶を説きて盡きざるとき、一種法悦に近き歓喜を覚え兵の為に、国の為に生命を捧げんことを期する程の真面目なる青年将校は等しく大いなる忘我的生活の体験を有する。

此の生活体験は多くの施年将校をして国家社会の不合理、不正不義を墳らしめて魂の革命と組織の改造とを思はしむるに至る。而して教官が国家の改造を思ふとき必ずや教官と同志的一体感をもつ兵は改造を思ふ。私をして革命運動の戦線に驀進せしめたる重大の動因は右の生活体験がある。更に二、三の体験実感を掲記する

一 伏本(假名)と云ふ初年兵はどうしたものか私の前へ出ると何時もうつむいて何だかオドオドとして恐ろしそうな風をする。そして教練、内務の休憩時間には快活な他の兵士の群を離れて独りで淋しそうにして居る。私は此の兵士が気になって仕方がなかったので或夜中隊に居残って班長と班付上等兵にきいてみると二人とも「伏本は学科、術科が出来ないのでひけ目を感して居るのでせう。ボヤボヤして困りますけれども別段変な様子はありません」との返事である。然し私は伏本が少年刑務所に居たことも両親がない事も知って居るので何か深い仔細がありそうでならなかったから消燈後将校室へ呼んで二人で菓子を喰ひつつ話さうとしたがどうしても菓子もたべず、話さうともしない何か心配事があるのだらふなとたづねても「ありません」と答へるだけである、おどしたりすかしたりしてして居たら、急に「教官殿伏本が悪かったのであります」と云って涙をポロポロと出している。私は何の事かわからんので「何が悪かったのか話してみよ」と云うと「伏本は教官殿が恐いのであります」と答へる、私は狐につままれた様だ「教官は恐くない今日は決して叱らないから話せ」と云って一問一答を續けてみたら、つまり彼は「教官殿に対して秘密をもっていたので、教官殿を見ると恐かったその秘密と云ふのは少年時代に盗みをして少年刑務所に入れられた事である」旨を答へた、更にやさしく色々と彼にきいてみると私生児であること、母親に早く死別した事父親だと云ふのは居るけれども始末におへぬ極道者であること、小さい時から奉公ばかりして他人の手塩にかかって苦労したこと、貧乏人に生れると一生頭があがらぬこと、社会より少年刑務所の方が楽であったこと等を咄咄と話した無学な咄辨な兵士であるが人並ならぬ世間の苦労と戰って来てゐるのでその実感を聞いて私は肺腑を刺さるる思ひがした。

後に伏本は私の当番兵になって私に色々な教訓をしてくれた。「教官殿あんまり 酒をあがるといけませんから伏本がビンにしるしをつけておきました 今夜はしるしの所まであがってください」と誠心こめて忠言して呉れたり「教官殿は初年兵より服の整頓が下手ですね」と笑はれたり 天真ランマンに教へて呉れた、私が「伏本今に教官が勉強して御前のような

不遇な人達を幸福にしてやるぞ」と云へば「教官殿伏本は戰に行ったら教官殿の側で死にます」と云ふ又「教官殿軍隊はよくあります伏本は満期せん方がいいであります」と云ふ。此の兵と教官は一心同体である。

此の神の様な兵士は何故不遇なのか、悪魔の様な人間が栄華を極めているではないか。此の可憐な兵士は少年刑務所から社会に出ることを嫌った、今又軍隊から社会へかへることを恐れている、此の兵士を抱擁愛撫する社会はないのか。私はかかる兵士の為に身命を賭することが将校の任だと考へた。

二  大木(假名)と云ふ兵は非常に元気な兵士で成績も良好であったが家庭は貧困であった、或る夏赤痢にかかって入院した。病状が悪化して私が行った時には臨終であった。「大木大木、死ぬのではないぞ」と呼ぶとかすかに目をあけて手をひろげて何物かを求める風をしたので私は思はずからだに手をかけて抱く様にしたら如何にも安心した様に、私の腕の中で眠るが如くに死んで逝った。入営以来、苦楽を共にした教え子の死、それは堪え得ることの出来ぬ悲痛な出来事であった。どうかして死後をよくしてやりたい。せめて遺族を慰めたいと云ふ気持で一杯であったが郷里にあるたった一人の血縁、盲目の祖母の悲嘆をつぐなひ得る如何なる方法もなかった。

この兵士の死に対して国家は将して何を以て報いたか。社会は何を以て慰めたか。僅かの死亡賜金と数個の花輪とが将して大木を慰め遺族を満足させるものがあらふか。チャプリンの日本来訪に熱狂せる社会とオリンピック大會参加に数十万人の寄贈を惜まぬ国民と、ロウ費遊惰にふける富豪と尊大誇揚を事とする上級軍人とはこの忠勇なる陛下股肱の臣を無名無為の死に終らせようとするのか 嗚呼此の社会人心の腐敗、矛盾を矯正すべく吾人自ら憤起せずして何時の日に兵士とその悲惨なる家庭は救はるるか。

三 歩兵隊で兵器を尊重することは想像以上である 體に負傷するとも銃にキズをつけるなと教へる 銃にキズをつけると往々にして懲罰にする、私はアッサリと欧打して営倉入りをを免除することを主義とした。

藤本と云ふ兵は上等兵候補者中でも頭もいい人格の立派な兵であったが足が弱かったので術科が不出来であった或日私が小隊密集教練をした時方向変換の際藤本が顚倒して銃の照星にヒドイキズをつけた。私は彼を同年兵全員の前へ呼び出して叱責殴打したらかれはしばらく我慢していたが突然地上に正坐して大声をあげて泣きつつ「教官殿許して下さい今後決して致しません、死んでも致しません、死んでも致しません」と叫び両手を合わして私を拝んでいる、余り叱り方がひどかった事にハッと気がついておとなしく訓誨して教練を中止した。所が私が不在の或日上等兵候補者は下士官指導の下に分隊戦斗教練を演習場で実施したその時藤本は敵陣地に突入し顚倒する際銃にキズをつけまいと思って右手で銃を差し上げててほれた為に弾薬盆で腸管を圧傷し重態に陥り入院した。私が見舞に行ったら「教官殿銃にキズはつけなっかたでせうか」と問ふ、「ヨシヨシ銃にキズはないよ、心配するな」と答へてやると「アアそれでよかった」と云って満足そうに死んで始末った。私は此の兵士に何と云って詫をしていいかわからなかった。銃など千千に砕けてもいいから藤本を死なしてはならなかった。彼の忠烈な精神は千万挺の銃器で代へる事が出来ぬのだ。一挺の銃器の為に生命を投げ出した兵士を思ひ断腸苦悶した。平時に於いてすら制度の欠陥の為に幾何かの兵を傷病死させる、こんな事では戰時に於ては兵備の欠陥を数十万の生霊で補はねばならぬかははかり知るべからざるものがる。茲に於て私の怒りは又又、制度に向って爆発せざるを得なかった。

註藤本の家庭も亦貧困な家庭であった、彼は總領で父は死亡し母一人と弟妹六、七人とがあった。

 

以上僅少の実例を以てしては全般を察するに容易ならずと雖も余が数年間の軍隊教育に於て接したる入営兵士の家庭の大半は貧困であった、而して軍事救護を要する家庭は入営兵の一割近くであってこの一割は相当極端なの下に算出したるものであるから少しく制限を寛にすれば二割に達する、而も戰時に於て国内産業停止等の場合を考へん時にはこの數字は倍加三倍加して五割に至るかも知れぬ 戦時百万の兵員中五割の軍事救護を要するとせば由々敷大事ではないか。しかのみならず兵器に於て兵員に於て皇軍の欠陥は數ふるにいとまがない。

 

軍隊の腐敗と皇軍私兵化の実状

軍隊特に上級幹部の腐敗は甚だしい。上級幹部の腐敗の原因して各階級の反目、シツ視、対立、交争、随って皇軍の私兵化は吾人の忍ぶ能わざるものがある。

「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所なり」と云ふ軍隊統率の大本義を真解しておらぬ故に何の不思議もなく聯隊長が「我が聯隊は云云」等と云ふ訓示をしたり、師團長は師團を統率する云々と放言したりするのである。聯隊は聯隊長の所謂我が聯隊にあらずして陛下の聯隊である、師團長は師團を統率するものにあらずして陛下の師團に陛下の大命を奉行するものである、陸軍は陛下統率の陸軍であって断じて渡辺大将の所謂「陸軍は陸軍大臣を中心として結束す」と云ふ如きものではない、

大隊長が侍大将を自任し、聯隊長を一城の主なりて云ひ、陸軍大臣を征夷大将軍の如く考へる、不ラチ至極なる上級軍人の存在が軍隊腐敗の最大の原因である、

師團長が統帥権を有し、連隊長、大、中隊長、下士官等兵迄統帥權を有する如く考へて、統帥命令ありと称して自恣をほしいままにする、不逞漢、統帥權は陛下のみ有し給ふものにして、断じて臣下に委ね給ふ可きものに非ず、唯臣下は大權の一部を陛下と一つ心になりて奉行するものである、

陛下と一つ心にもならずして自我自恣の腐魂を以て、「我が聯隊は」と云ふ聯隊長と「陸軍大臣を中心として結束す」と云ふ陸軍大将の思想は明かに「国体に戻り且は我が祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第」と御なげき給ひたる中世武門の棟梁等の其れと歸を一にする

大元帥陛下御親卒の大精神を信奉せざる各級幹部等の為に皇軍は如何に攪乱私兵化されて居ることか

明らかに云ふ「陸海の軍人共よ我が国の軍隊は汝等軍人が統率するものに非すして世々天皇が統率するものぞ兵馬の大権は朕が統ぶる所ぞ、この本義を過ると中世以降の如き失体を起すぞ」との大御言を真解体得することが腐敗軍隊を救う唯一の道である

右の如く上級幹部が建軍の根本的大精神を忘却してゐる為忠節と礼儀と、武勇と、信義と、質素と、は不忠たり、不礼たり、不勇たり、不信たり、不質素となり軍隊は今や本末共に腐敗している。

一、君国に忠節を盡すことは実に軍人の分である 然るに君国に報ゆるの赤誠には薄くして、一念上官に盡すことが部下たるものの忠節なるかの如く感へている。将校は上長に認められることに汲汲之れつとめ、隊長亦その上官に認められんとして鞠窮然たる風は今日軍隊の上下にオウ溢している、凡そ幹部の忠節は君国に報ゆるの至誠に発せるにあらずして自己の幸福を願ふ私心に発している。進級の一日も早からんことを自己の為に祈り、栄轉せんことを自己の為に祈り、技藝に熟するのも、学術に長するのも、隊位を整ふるのも、皆自己の為にするものであって斯の如きは決して真の忠節ではない。将校集会所に於ケる幹部が片言、句句を開く時に如何に彼等が腐敗しているかわ、思ひ半はに過ぎるものがある、

二、軍隊に於て禮儀の乱れていることには亦甚だ敷きものがある。礼儀とは部下が上官に対してのみなすものの如く考へている幹部が少なくない。これ等の幹部が部下にのみ禮儀を要求し自己は部下に対して礼をつくさない為に礼は先づ幹部によって乱される、礼儀を乱るものは下級者にあらずしてすべて上級者なりと云って憚らぬ、上級者が下級者にに対して「下士の分際で云云」「中小尉の癖に生意気だ」「無天だから頭はない」等云ふ如き軽侮驕慢の振舞は挙げて數ふるにいとまがない、甚たしきに至っては上官の命は陛下の命なりとの虎の威を以て部下に服従を要求する如き者すらある、下を慈むこと、下に対して軽侮驕慢でないこと、下を奴隷視せぬこと、が礼を正す基であることを上級者は銘行すべきである、皇軍軍人は一兵たりとも雖も幹部私兵にあらず幹部の奴隷にあらずして、幹部の奴隷にあらずして、陛下の赤子股肱である、陛下の赤子股肱に対して礼を正すことは凡ての上官のなさねばならぬ道である、然るに礼儀が上官によって乱されていることは何を物語るものか。それは上官が兵に対するに陛下の赤子たることを忘れ我が聯隊の兵、我が中隊の兵と云ふ皇軍私兵化の観念の為に皇軍が腐敗して居ることを実証するものではないか。

三、上級軍人にして武徳に欠けたる者多きは永田少将、橋本、根本、大佐等を以てその一般を知り得る。

四、私情の信義を守り、小節の信義を立て大綱の順逆を誤ること今日の軍人より甚だしきはない。凡ての言論行動が小節を守り私情に発して、大我大義に発しないので常に大綱の順逆を誤る、ロンドン條約当時、不臣の徒にクミしたる財部、岡田、谷口、斎藤の輩或は昨夏真崎總監更迭時に於ける林、南、永田、橋本、根本、新見、片倉等、三月事件に於ける宇垣、二宮、小磯、建川等不逞大本教團に加名せる幕僚の一群等 擧軍滔々順逆を誤りたるもののみではないか。

今回青年将校等が蹶起して国奸を誅したるに際し軍首脳部が周ショウ狼狽去就に迷ひ私情小節をもって、聖明を蔽ひ、大権を干犯し、不臣不義を重ね来りたる上層支配層にクミシ、尊王義軍の精神行動を悉く隠蔽埋没して虚偽を奏上し、自意専断以て事態を拾収せんとしたる如きも亦大綱順逆を誤り大義を没却するものである。

以上は抽象的記述にして軍人軍隊の腐敗の実状を盡し得ざるも若し具体的実例を指摘せよとするならば千万の実例を掲ぐるに難くない。

叙上の如き幹部の腐敗はヒイテ軍隊の腐敗となり軍は今将に皇軍にあらすして完全に大山軍閥の私有に歸したりと云へる。中隊長は自己の栄進の為に中隊を私有化し、大隊長亦大隊をを私兵の如く動かし、聯隊長は聯隊に臨むに一城の主の威を以てし、大小の幕僚又僣恣極まるものが多い。加ふるに天保と無天とのシツ視、兵科間或いは出身閥の対立藩閥ケイ閥の私闘等軍内は実に群雄割據の状態である、此の不統一に乗じて重臣、軍閥、政閥、財閥等は結託し兵馬の大権を干犯すること二度に及んでいる。更に驚く可きは宮中、府中に巣喰ふ不臣の徒等は露国を恐れ、英米に憚り自ら外夷の手先となりて軍備の縮小、制限、外交の妥協、譲歩を事とし帝国の外濠を内濠とを埋めその上で軍人と軍隊と国民とを舞踏さしているのではないか。ついでに云ってやろふか外濠と内濠だけではないぞ城中に敵国のスパイを入れているではないか。帝国外征の作戰中枢部たる陸軍省、参謀本部は露化英化せる外交官型の軍人が敵国のスパイをしているではないか。嗚呼国軍は腐敗崩壊しつつある。而して軍は陛下御親卒の皇軍にあらずして大小軍閥の私兵に化し終らんとしている。

 

所謂皇軍相撃を論ズ

維新党は所謂皇軍に非ず。所謂皇軍は維新党にあらず。維新党は尊王討奸の義軍として天使の正義軍たり。真の皇軍と云はる可きものなり。
所謂皇軍が天皇側近の奸悪を防護し不臣不義の臣僚にくみし名を奉勅にかりて義軍に抗するにあらばそは実に明かなる維新反対の佐幕的不義の軍隊なり。
維新革命とは正義と不義との戰なり。

青年将兵が正義を体し宮中府中をめぐる重臣等が不義に居る時、革命途上両社の間に避くべからさるなり。維新義軍が不義の重臣群を討滅するに當り之を妨害するものが所謂皇軍にと称するものならば義軍は断乎皇軍と血戰を交へさるべからさるなり。

 

吾人は先つ皇軍の意義を明かにせざるべからず

真の皇軍とはその精神に於ては赤誠君国に報ゆる大義に燃ゆるものなる可く、又その形に於ては大元帥陛下御親卒九千万全同胞ならざるべからず 即ち、軍隊が陛下の皇軍ならば警察隊も陛下の警察隊なり官吏群も陛下の官吏群なり、首相、重臣も元老も陛下の重臣元老にして悉く九千万国民軍の一員たらざるはなし

然るに何ぞや。元老、重臣、首相、警官隊と吾人維新義軍との相撃、殺傷を是認し独り所謂皇軍との相撃を不可なりと断ずるはその理将して奈辺にありや。

更に云はん今吾人がかりに百歩を譲りて皇軍とは現役軍隊のことなりとするも、若しこのこの現役皇軍中に渡辺大将林大将の如き不臣の徒が自己の信念とする天皇機関説思想により、或は統帥權干犯により吾等尊王の義軍に征討の使を向くるならば義軍はその本領に於て所謂現役皇軍と死戰せさるべからず

我等今回義 挙の間奉勅命令に接し初志をひるかえして血戰死闘を避けたると雖も不臣不忠の徒の残存して名を大命に託し維新反対の佐幕軍を向け一挙断圧の態度をとりたるに対しては萬腔の痛恨禁せんとして能わず嗚呼。

 

両言す 維新革命とは正義と不義との戰なり 正義軍と不義軍との相撃は革命の原則にして皇軍の相撃亦維新途上の必然なり
江湖共等の同志諸兄よ、錦旗をかざして維新反対佐幕的不義の軍隊と決戦勝利の日の近からんことを祈る。
昭和十一年三月廿一日より手記を記す

此の日春季皇霊祭