田中勝


陸軍砲兵中尉(野戦重砲兵第七連隊)
田中勝中尉は明治四十四年一月十六日、下関市長府町才川の田中富作氏の長男として生れた。山口県立豊浦中学から熊本陸軍幼年学校を経て昭和八年七月、陸軍士官学校を卒業した第四十五期生である。同年十月砲兵少尉任官と共に、市川野戦重砲兵第七連隊付となつた。当時、河野寿大尉が同隊にあつたので、その感化を受けたようだ。その後、河野大尉が航空へ転科した後も、河野、磯部、栗原等と交わりをつづけ、急進決行派の一人であつた。

昭和十年十月中尉に昇進し、同十二月二十五日、下関市富田町の平山久子さんと結婚した。しかし、久子夫人との結婚生活もわずか二ヵ月足らずで事件勃発、田中中尉は、獄中で、夫人の懐胎(かいたい)を知らされたのである。彼は夫人への遺書に、胎児は必ず男子であるとして、「孝」と命名した。その年の十月、果して生れた子供は男子であつた。しかも月こそ違え、父の命日と同じ十二日であつたのも、なにかの囚縁といえよう。
平素同郷の先覚志士、吉田松陰を崇拝すること深く彼もまた、松陰と同じ運命を辿つた革命児たることを自負して、刑場の露と消えたに相違ない。
命日 昭和十一年七月十二日(第一次処刑)
戒名 解脱院勝誉達空一如居士
墓所 山口県下関市長府町 才川墓地
辞世
我はもと大君のため生れし身
  大君のため果つる嬉しさ
たらちねの親の恵みの偲ばれて
  只先立つて我は淋しき

妻への遺詠
現世の荒波けつて進まむと
  覚悟の色を見るぞ嬉しき
 八日朝

河野司編 二、二六事件よりの抜粋
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